わが闘争 ~それでもズル熊はズルい~
こんにちは、加藤名人万歳であります。私がズル理論を提唱して、はや10年になりますが、未だズル勢力は巨大であります。しかしながら真実は必ず勝利するのです。ともに手を携えズルと闘おうではありませんか!
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楽しく学ぼうズル理論~古典学習のすすめ(その1)~
ズル理論要説

Ⅰ現代将棋界が直面する問題とはなにか

 現在、将棋界はこれまでにない危機に陥っている。かつて一千万といわれた将棋人口はここ数年で激減し、いまや200万程度にすぎないといわれる(「レジャー白書」参照)。
その根本的原因こそが、まさしく穴熊=ズル熊である。ズル熊によって心を傷つけられた多くの善良なる将棋ファンが、将棋から去っていった。ズル熊は、その名のとおりズルな戦法である。この戦法によって将棋界を去っていった人は数知れない。よって、この戦法が将棋界に与えた損失ははかり知れない。

 このような事実に気が付かないか、目をつぶっているか、あるいは隠蔽しているのが、ズル熊党の支配する現代将棋界である。ズル熊党は、ズル熊という自らの既得権益を守るために、これまで「穴熊はズルである」という真実を隠蔽してきたし、今もしているし、これからもするであろう。

  「穴熊はズルである」。この真理を直視しないかぎり、将棋界の危機は打開できないばかりか、将棋界は次第に衰退し、やがては静かに、そして寂しく死滅するであろう。

  「穴熊はズルである」。このことは、本来説明を要しないものである。なぜならば、「穴熊はズルである」という真理は、自然で、純粋な、本来美しい人間の率直な感情で、理解されるからである。人間の率直な感情とはすなわち直感であり、直感とはすなわち人間がうまれながらにして有する理性である。人間の理性は真理を映し出す鏡である。穴熊はズルである。これは人間の理性が映し出した真理である。

 加藤一二三名人は「直感精読」という言葉を好まれるが、これは「人間の理性に基づく直感こそが正しい」という真理を認識した、まさしく神武以来の大天才ならではの偉大な言葉なのである。

 しかしながら、将棋界はズルで汚染され、いまや人間が本来持っているはずの理性が窒息させられ、もはや正常な事理弁別能力を失っている。ゆえに、人々の正常な理性に基づく直感が認識した「穴熊はズルである」という真理は、きわめて残念なことに、いまや説明しなければならなくなっているのだ!なんという悲劇、なんという滑稽であろうか!

 そこでわたくしは、「ズルとは、特段の工夫もなく、ただその形に組むだけで勝ちやすい囲い・戦法・形をいう」と定義した。本来感情的な言葉である「ズル」を客観的な状態によって基礎付けたのである。この定義により、単なる感情にすぎなかった「ズル思想」は「ズル理論」という科学となったのである。

 こうしてわたくしは、ズル一般を定義し、その中でも著しく人間性に反する穴熊の禁止を主張している。 21世紀は「人間性の尊重」が最大の課題となる世紀である。おもうに、20世紀は科学技術が大きく発展したものの、人間の思考は停滞し、凍結させられてきた時代であった。このような反省をもとに、人間性に反する穴熊の禁止こそが、21世紀将棋界の目標とされねばならない。

Ⅱズル理論の全体像

 ズル理論の具体的な内容に入る前に、その全体像を大まかに説明する。登山をする前にはその山の全体像を見、目標を知らねばならない。それと同様、理論の理解を順調にするためには、その理論の全体像を知ることが有意義である。

 ズル理論の根本は、ズルの定義にある。「ズルとは、特段の工夫もなく、ただその形に組むだけで実力に関係なく勝ちやすい、囲い・戦法・形をいう」とわたくしは定義している。

 ここでは、ズルと実力を峻別し、ズルを客観的な状態として定義している。これがきわめて画期的な成果であるということは、すでに述べたところである。

 それからわたくしは、「特段の工夫もなく」と付け加えた。これはズルと作戦勝ちを区別するためのものである。その意義は、本来作戦勝ちとは、実力で、苦労に苦労を重ねてなされるべきものであるが、ズルにはその苦労の必要がないということを明示した点にある。かつて、「ズルとは作戦勝ちのことではないか」と言い張るズル熊党がいたが、この定義により、そのようないいがかりはもはや通用しなくなった。ズルの定義はより完壁なものとなった。

 この定義をもとに、わたくしは、将棋にはズルという要素があるということを示し、このズルが、将棋の他の要素といかなる関係にあるのかという考察へと進んだ。

  「将棋の勝敗=実力+研究+ズル+偶然」。これが将棋の一般方程式(ズル方程式)である。この方程式は、将棋を一般的・抽象的に表現したものであり、将棋を映しだす鏡である。ゆえに、将棋に関するあらゆる問題は、この方程式の具体化としてあらわれる。

 賢明なる読者の中には、「将棋に『偶然』があるのか?」という疑問を感じた方もあろう。そこで、次にこの『偶然』について説明するとしよう。

 たしかに将棋には偶然という要素はある。偶然攻めがつながったり、偶然受かったり、偶然角が利いてきたりといったことは、皆さんもご経験のことと思う。これに対しては、「将棋に偶然はない。すべて必然である。」と反論する方もあろう。しかし、我々は将棋を科学するのである。「将棋はすべて必然である」といい切るだけでは、「偶然とはいかなるものか」という人々の疑問に応えることはできない。そのような態度は「信仰」にすぎず、偶然という現象を説明する科学ではない。

 偶然が多く生ずる戦形は何か。そう、ズル熊である。なぜならば、偶然は、ズルが多くなればなるほど増大するからである。偶然はズルに比例する。すなわち「偶然=ズル×a(定数)」となる。aはどのような戦形にも共通して、最低限存在すると考えられる「固有の偶然」である。そして、ズルな戦形になればなるほど、偶然は増大するのである。わたくしは、この方程式を「偶然方程式」と呼び、ズル方程式を補完するものと位置づけている。ズル熊は、偶然攻めがつながったり、偶然ズルな手が落ちていたりといったことが頻繁にあるが、それはズル熊が最高のズルだからなのである。相穴熊であれば、ズルが極限に達し、偶然的な現象が頻発する。

将棋の勝敗=実力+研究+ズル+偶然
偶然=ズル×a(定数)

 ズル理論は、ズルの定義を基盤に、ズル方程式を骨格とする理論である。そして、穴熊のズルさと反人間性を強調し、その禁止を主張する。

Ⅲ将棋の諸要素

 次に、ズル方程式に示した実力、研究、ズル、偶然をそれぞれ説明しつつ、実力と研究、研究とズル、ズルと偶然の諸関係を説明する。

1.実力
 実力とは、読み、大局観など、その人個人に内在するあらゆる能力を総称していう。したがって、事前の研究によって勝っても、「実力で勝った」とはいえない。ズル熊をして勝っても実力でないことはもはや言うまでもないであろう。

2.研究
 研究は、もともと実力を補完するために試みられたものである。よって、研究が実力を凌駕することはなかった。研究が実力を凌駕するようになり、ズル問題の発生につながったのである。本来の研究とズルな研究とは、区別して考えなければならない。

3.ズル
 ズルとは、特段の工夫もなく、ある特定の形に組んだだけで実力に関係なく勝ちやすい囲い・戦法・形をいう。ズル熊がその典型例である。

4.偶然
 ズルの発生より、将棋においては偶然が多発するようになった。ゆえに、「偶然とは何か」ということが議論されるにいたったのである。

 偶然は、ズルに比例して増大する。いや、増大するように見えるといったほうが正確かもしれない。いまや、ズルはズル熊だけでなく、あらゆるところに潜んでおり、もはや直接的に認識することができなくなっている。それゆえにズル勢力は、「将棋にズルなどない」と言い張るわけであるが、そのような言い訳はズル理論には通用しないのである。

 ズルの存在が、偶然という形で我々の目に映るのである。ズルが具体的な形で我々の目に映ったものが偶然である。すなわち、ズルという本質が、偶然という現象として、我々の目に映っているのである。それゆえに、偶然はズルの現象であるといえる。よって、われわれは偶然という現象を通してズルという本質を認識することが可能なのである。ズル勢力は、もはや我々からズルを隠蔽することはできない。

IV論理的に

 わたくしは、「将棋の勝敗=実力+研究+ズル+偶然」であるといった。
方程式の項の順番は、入れ替えてはならない。この順番は、この方程式の論理的意義を表現している。「方程式」といっても、数学的な方程式とは異なるのである。ズル理論の論理を分かりやすく、最も抽象化した形で表現したのがこの方程式なのである。

 まず、将棋に元来存在する要素は、実力と、固有の偶然aである。そして、実力を補完するものとして研究が出てくる。研究の占める割合が大きくなると、実力を脅かすようになり、そこでズルが発生する。さらにズルが増大すればするほど、偶然が増大する。

 将棋の諸要素は、実力→研究→ズル→偶然と展開する。時間が経つにつれ、右側の要素の比重が増大し、実力勝負としての将棋の性格が変質する。そして、これを放置すると、最後には将棋はサイコロ博打と同様、単なる偶然勝負のレベルにまで堕落してしまうであろう。

 この問題を解決する道はただ一つ。穴熊の禁止である。

V歴史的に

 将棋界の歴史はズル方程式と偶然方程式の正しさを裏付けている。順を追ってみていくこととする。

1.大山名人時代前期以前(盤上の時代)
 この時代は、将棋の勝敗=実力+aに近い状態であった。したがって、第一人者大山康晴15世名人時代が長くつづいた。神武以来の大天才加藤名人でさえも、大山名人の壁は破れなかった。

2.大山名人時代中・後期(研究の発生)
 この時代には、なんとか大山名人を倒そうと、研究が始まった。将棋の勝敗=実力+研究+aの時代である。山田九段の研究がその代表例である。しかし、この時代の研究はあくまで実力を補強する程度のものであり、大山名人は、毎回少しずつ手を変えて、研究を外すことが可能であった。

3.中原名人時代(ズルの発生)
 この時代の最大の事件は、ズル熊の発生である。昭和50年代までの大山名人は、その桁外れの実力で、ズル熊を成敗していたが、その後、ズルの膨張とともに次第に大山時代は終焉を迎える。中原名人もまた、その桁外れな実力に加え、自らズル熊を用いることによって、ズル時代に適応していった。

 この時代は、将棋の勝敗=実力+研究+ズル+aの時代である。偶然はまだそれほど目立たず、将棋は実力勝負のゲームとしての権威を保っていた。ズルはズル熊にほぼ限定されていたが、それでもズル熊が蔓延することにより、次第にズルが膨張していった。

4.谷川・羽生時代(ズル・偶然の膨張)
 将棋の勝敗=実力+研究+ズル+偶然。現在のズル方程式の発生と発展の時代である。将棋界は、長い実力の時代が終焉し、ズルの時代に突入した。ズルの著しい蔓延により、中原時代は終焉を迎える。

 この時代になると、ズルがプロ、アマ問わず広範囲に蔓延し、戦法としてもズル熊以外の分野にまで広がってきた。将棋がつまらなくなり、離れていく人が目立つようになる。ズルな研究は大いに発展したが、将棋界は衰退の時代に入った。

 実力の時代とズルの時代の過渡期に活躍したのが谷川名人である。谷川名人は、「光速流」といわれる本来の実力に加え、ズルに順応し、自らズルを多用することで、今日においてもその地位を保っている。

 ズルを打倒しようという試みもあらわれた。居飛車ズル熊に対する藤井システムに代表される振り飛車党の工夫である。今後、居飛車ズル熊が成敗されるのか、注目すべきところである。しかし、藤井竜王でさえも、佐藤穴熊名人には勝てないことに象徴されるように、振り飛車側が如何に工夫しようとも、最後にはズル熊側が勝利し、最終的には将棋そのものが相ズル熊という究極の姿へと収斂されていくであろうと予想される。

 その先駆けとして、振り飛車ズル熊に対しては、居飛車ズル熊しか対抗策が見出だされていない。というより、居飛車党は居飛車ズル熊ばっかりするため、「相手が振り飛車ズル熊できても、居飛車ズル熊で対抗すればよい」との退廃的な考えが蔓延しているのである。「振り飛車穴熊は減っているではないか?」との疑問も聞かれるところではあるが、居飛車ズル熊で対抗されるから振り飛車ズル熊が減っているというにすぎないのであり、この点では何の展望もない。

ズル熊を禁止しないかぎり、将棋は死滅してしまうことは明らかである。

VI論理的・歴史的に

 実力を補完するために研究が出てきて、研究が占める比重が大きくなると、ズルな研究が発展し、ズルが発生する。ズルが増大すると、それに比例して偶然もまた増大する。このことは、論理的に明白である。さらにわたくしは、将棋界の歴史をみても、この論理と基本的に一致することを証明した。

 論理と歴史とは、それぞれが独自の展開を見せながらも、究極的には一致するものである。ズル方程式は、将棋の論理と将棋界の歴史を体現している。それゆえにこそ、ズル理論は真理なのである。

(「ズル理論研究」 2001年7月号)
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